バレルドランの活火山

狐桜のサブブログ

人はなぜ『ちんぽ』と呟くのか

人はなぜ『ちんぽ』と呟くのか。

人はなぜ『ちんぽ』と呟いてしまうのか。

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私のツイッターのタイムラインでは『ちんぽ』という単語を呟く人間が多い。定期的に『ちんぽ』という単語が私のタイムラインに流れてくるのである。

しかし、彼ら(彼女ら)の『ちんぽ』に何があったか私は知ることができない。なぜなら、「『ちんぽ』が痛む」などの呟きではなく、そのような人たちが呟くのは『ちんぽ』の1単語だけだからだ。

たとえば『ちんぽ』1単語だけのツイートをするにしても、「めちゃくちゃ痛む」「とても痛い」などの呟きのあとに『ちんぽ』と呟くのはわかる。我々読者に何が痛いかを期待させ、『ちんぽ』で締める論法である。また、先に『ちんぽ』と呟き、そのあと「めちゃくちゃ痛い」と呟くのもわかる。『ちんぽ』という共通認識を読者に持たせ、それが痛いことを伝えるのだ。


しかし、彼ら(彼女ら)はそれをしない。突如ツイッターに現れたと思ったら『ちんぽ』だけの呟きをし、風のごとく去っていく。彼ら(彼女ら)は何をしたいのだろうか。

私は格闘ゲームに通じていないが、格闘ゲームだったら『置きちんぽ』などと呼称されることになるのだろうか。もしかすると私が長文メンヘラツイートを呟いている間に『ちんぽ』を挟もうとしているのかもしれない。確かに自分が「辛い」「苦しい」アピールをしているタイムラインの中に突如『置きちんぽ』を決められてしまうと、すかさずブロックボタンのコマンドを返しとして入力したくなってしまう。

だが、このツイッターは相手の体力を0に削るまで殴り合うゲームではないし、相手にブロックボタンを押させると勝ちになるゲームでもない。彼ら(彼女ら)の『ちんぽ』の意図はまた別のところにあるのだろう。では、彼ら(彼女ら)の『ちんぽ』の意図はどこにあるのだろうか。


私はそれを知るために自ら『ちんぽ』という呟きをすることを選んだ。「為すことによって学ぶ学習」、これはデューイによる経験論であり、今の特別活動の重要な手法となっている。日本の教育界で活用されているメソッドを活用することにより、私は『ちんぽ』の謎に迫りたい。


楽しかったときに『ちんぽ』、疲れたときに『ちんぽ』、感動したときに『ちんぽ』、泣いたときに『ちんぽ』。私は様々な『ちんぽ』を試した。ときには人に対するリプライにも『ちんぽ』を送った。

だが、私には『ちんぽ』と呟く彼ら(彼女ら)の意図をなかなか掴むことができなかった。これでは私がただ『ちんぽ』と呟きたく『ちんぽ』と呟いているだけではないか。ただの『ちんぽ』が好きな人間である。……いや、もしかすると彼ら(彼女ら)もただ『ちんぽ』が好きな人間なのかもしれない。ライブ会場で推しアイドルの名前を突如叫ぶアイドルオタクのように、彼ら(彼女ら)はツイッター会場で突如『ちんぽ』と呟く『ちんぽ』オタクなのかもしれない。

そのようなことを考え過ごしていたが、ある日突然『ちんぽ』の謎を解明する出来事が起こったのだ。


私は派遣のアルバイトをしているが、業種柄クレーマー対応を行わなければならないことが多い。その日も理不尽なクレームを受け、沈んだ感情、怒りの感情半々でツイッターを開く。そこで真っ先に打ち込んだ言葉はなんと『ちんぽ』であったのだ。

沈んだ気持ちを誰かに慰めてもらいたい、自分の怒りを周りに伝えたい。しかし、それらを呟いてしまうと、それを見た人に負の感情を伝播させてしまうことになる。そのフィルターを通して抽出された言葉が『ちんぽ』だったのである。

そして不思議と『ちんぽ』と呟くと私のストレスは軽減した。もしかすると純粋に愚痴を呟くより効果があるのかもしれない。周りにも迷惑をかけたい・自分が不幸だと知ってほしい気持ちを抑えたという自己満足感からであるようにも考えられる。

つまるところ、普段『ちんぽ』と呟いている彼ら(彼女ら)はストレスの絶えない社会を乗り越えるために『ちんぽ』と呟いていたのだ。私たちに負の感情を伝えず、ただ淡々とした『ちんぽ』。愚痴ツイートは長文になることが多く、嫌でも目についてしまう。だから1単語の『ちんぽ』。その一言で彼ら(彼女ら)は私たちに気を遣った上で、ストレスを発散していたのである。

ここで気をつけなければならないことは、明確に辛いことを呟かれるのであれば、その人の境遇をある程度察して適切な言葉をかけることができる。しかし、『ちんぽ』のみであると、その人の境遇を推しはかることができない。だが、『ちんぽ』と呟く彼ら(彼女ら)が辛い境遇にいるのは確かである。

『ちんぽ』ツイートが多い彼ら(彼女ら)を汚言症として距離を置くのではなく、『ちんぽ』が多い日には「頭大丈夫?」と声をかけてあげることが大切なのかもしれない。